大きく失望した次の日に、大きな希望に出会えた話

小さな失敗や自信喪失が、人生自体を諦めたくなる様な大きな失望に繋がる時がある。

小さな失敗が続き、対策を練って次こそは…と挑戦しても良い結果が得られない。

そんなことが続くと、ちょっとしたようなことでも希望を失ってしまうのだ。

 

大学生の時の私もそうだった。

 

大学の授業で、2週間に1度、発表の場があった。指導教官は厳しく、どんなに「よし!今回は良いまとめができた!」と思っても、良い評価を得ることが出来なかった。

一緒の指導教官についていた同期は優秀で要領がよく、表立って褒められてはいなかったが、教官が同期の発表に感心していることは見てとれた。

 

私はどんどん自信を失って行った。

そして、ある日限界が来た。

次の日には発表があって、まだ充分に準備ができていなかった。

でも、「どうせまた失敗する。いくら頑張っても無駄なんだ」と失望して立ち上がれなくなってしまっていた。

今の現状にだけでなく、未来にも失望していた。

「大学生の今ですらこんなんだったら、就職活動は上手く行くのか?仕事が始まったら、やっていけるのか?」

自分への失望で頭がいっぱいになり、何も出来なくなってしまっていた。

 

仕方ないので、イエス様に叫ぶように祈ってから寝た。

「助けて下さい。私はもう自分に対して期待することができません!」

 

次の日の早朝、私は夢うつつの状態で、小さな囁き声を聞いた。

その声は小さいけども、何かはっきりとした意志を感じた。そして、幾分必死な感じがした。

息継ぎもせず、その言葉のみを何度も続けていたのだから。

 

初めは何を言っているか分からなかったが、意識が少しずつはっきりするにつれ、その声が何を言っているかが聞き取れた。

「…アドナイ・イルエ、アドナイ・イルエ、アドナイ・イルエ…」

 

その時の私は、全く何のことか分からなかった。

 

クリスチャンの方であれば、すぐに何を指しているのか分かる方は多いと思う。

でも、当時の私はそこまで聖書を読んでおらず、この言葉の意味を知らなかった。

でも、何かしら聖書の中の言葉なのかな…ということだけはぼんやり察した。

 

変な夢だったな…と思いつつ、私はインターネットでその言葉の意味を調べた。

そして、息を呑んだ。

 

『備える神』。それがアドナイ・イルエの言葉の意味であった。

 

何度もこのことを思い返す度に、私は神様の深い愛と配慮、そして謙遜さに感動する。

私は自分の弱さや限界に目を向けることから抜け出せなくなっていた。

でも、神様はそんな私の意識が朦朧としている時を選んで、私の信じている神であるご自身がどんな方であるかを優しく思い出させようとして下さっていた。

私に必ず届くようにと、必死に。

 

私の心があまりにも余裕がないので、頭がフル回転し出す前の時間を選ぶしかなかったのだろう。

そして、「あの声は自分の気のせいだったのかも…」と疑う可能性があるので、わざわざ私が知らない言葉で語って下さったのだろう。

何度も何度も。

「あなたの今と未来には私(全能の神)がいるじゃないか!きちんと今もこの先も備えてるよ!」という想いを沢山こめて。

 

あの時の発表が上手くいったかどうかは覚えていない。

覚えていないと言うことは、可もなく不可もなくという感じだったのだと思う。

私がその時失望していたことは、実は人生の中ではさして重要なことではなかった。

 

でも、「アドナイ・イルエ」である神様のご性質とこの出来事はその後の私の歩みの中で大きな希望となっている。

そして、実際的な助けも得られた。その先の就職についても、仕事についても、神様は備えて下さっていた最善の道に導いてくれた。

 

聖書には神様の性質が沢山書いてある。

救い主、この世界を創った方、備える神…他にもたくさん。

成功しても失敗しても、これからの歩みの中でその1つ1つの性質を味わって喜びを得ていく。神様がどんな方かをより深く理解する。

それが、クリスチャンになって得られる希望の一つだ。

 

[創世記 22:14]

アブラハムは、その場所の名をアドナイ・イルエと呼んだ。今日も、「主の山には備えがある」と言われている。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

[ホームページ]
https://graceandmercy.or.jp/app/

生きづらい私が ますだおかだ 岡田似の教習所教官の言葉で変われた話

私はとても心配症だ。


もともと、学生の頃から色々と心配をする質であったが、
エンジニアになってから更に拍車がかかったように思う。
何しろ、製品開発をするために予め様々な懸念点を潰していく必要があり、
起こるか分からないことを洗い出して対策を計画する必要があるのだから。

そして、心配症であることは、私の生活の色々なことに支障を与えていた。

 

まずは人間関係。

自分が発した一言一言や、自分の表情が相手にどう見られているかが気になって
特に知らない相手と話した後にはひどく疲れ切っていた。

 

また、仕事でも。
色々任せて頂ける環境に神様が置いてくださっていた。
それなのに、新しいことを任せられるたびに、怖くて怖くてしかたがなかった。
心配性なので、「できません」と言って、仕事を任せてもらえなくなることが怖かった。

なので依頼された仕事は、上司に対してはとりあえず「任せてください!」と受けていた。

それでも、神様に、「こんなことできないです!」とつぶやくこともあった。

 

新人の頃は、本当に心から神様が助けて下さる!と信じていたが、
年次を経るごとに新しいことのレベルは当然どんどん上がっていた。

それでも、神様は私が祈るときに、その時々に応じた助けを与えて下さり
私は、いつも自分の能力ではどう考えても達成できない仕事を果たして行くことができた。

それでも、私はつぶやき続けていた。

 

ある日、私は転勤して車がないと生活に困る場所で生活することになった。

お金がない学生時代に免許を取らなかった私は、やっとこさ免許を取ろうと重い腰をあげた。

 

しかし、心配性の私にとって、運転することは至難の業であった。

時速4~50km出すのも怖くて、いつも20kmくらいで走っていた。
私の運転はツッコミどころが満載だったらしく、スピードについてはそこまで
注意をされなかった。

しかし、ある日、とうとうスピードについてダメ出しをされた。
ダメ出ししてくれたのはお笑いコンビ、ますだおかだの岡田の方によく似た教官だった。

 

オカダさんは、ぱっちりした目をぐりんと見開いて、私にこう問うた。

「yuriさん、スピードを出すのは怖いですか?」

私は、はい、怖いです。と正直に答えた。

 

オカダさんはさらに問うた。

「なぜ、怖いと思います?」

 

私は答えられなかった。

たぶん、車のスピードを出すことだけではなく、他の色々なジャンルに「怖い」と思ってしまうことについて理由を聞かれていたとしても私は理由を答えられなかったのではないかと思う。

私が黙っていると、オカダさんは続けた。

 

「怖いと思うのは、ブレーキのことを忘れているからです。そして、ここが教習所だということも。
どんなにスピードを出していても、ブレーキを踏めば車は止まります。
なんなら、yuriさんがブレーキを踏み忘れたって僕が踏みます。
ここは教習所なんです。歩行者もいません。
だから、ここで思いっきりスピードを出す練習をして、失敗するならここでしといてほしいんです」

 

私は大いに納得した。そして、目先の怖さに囚われてしまう自分の視野の狭さにはっと気が付いた。
視野が狭くなったことで、私は周りの状況に気づいていなかった。
助けてくれる教官の方がいることも、ここが失敗してもアシストしてもらえる環境だということも。

 

そして、その言葉はひどく私の心を捉えていた。
そして、日曜日の教会の礼拝で2度も私は神様に語られた気がした。
「あなたは、私から成し遂げることができる力(アクセル)を与えられている
そして、道を外したり、的外れなことをしたら、私が状況を閉ざすし、教えるよ。
私がブレーキをかけてあげる。
なぜ、あなたは自分に自分でブレーキを掛け続けるの?
やるべきことに、アクセルを踏み込みなさい。成し遂げなさい。
私がブレーキを掛けなさいとの指示を出したら、その時にブレーキを踏みなさい。
私が与えたあなたの目的地に、もっとスピードを出して進みなさい。」

 

私にはブレーキをかける100もの理由があった。
でも、この人生が神様のために歩む人生だと捉えた時に、
自分でブレーキを踏んで、目的地に辿り着けないことがあってはならないのだとわかった。

 

それから、私は少しずつ変わって行った。

その当時の職場では、一番年齢が若かったため、いつも意見を言えずにいたが、一度意見を言ってみると、皆快く聞いてくれて勇気が出てきた。

気がつくと、言うべきことをきちんと言えるようになっていた。

(調子に乗って、言わなくてもいいことまで言ってしまうようになった失敗の話は、また別の機会に)

色々決断する場面についても、共にいて助けてくれる神様の存在に勇気づけられて決断することができるようになった。

 

人生のドライブ方針はまだまだ迷うことが多い。

でも、このことがあってから思う。

私が何を決断して、その結果がどうだったかは1番重要ではない。

神様と語り合いながら決断すること、

神様がその後どのように働いて下さるかを見て信頼関係を深めていくこと、

神様と一緒にその過程で得られた成果を喜ぶことが1番大事なのだ。

はじめに

To:このブログを読んでくださっている皆様

はじめまして。nonoyuriです。

ブログは、たぶん初めての体験です。

 

SNSは色々流行りのものをやったりしていましたが、

ブログでは、SNSでは書けない思いや考えを色々書いてこうと思います。

 日記にしなかった理由は、2つあります。

1つ目は、人の目を意識した文章を書く練習をしたいという思いがあったから。

2つ目は、神様(イエス様)のことや聖書のことばを分かりやすく書いてみたいと思ったから。ちなみに、私はプロテスタントのクリスチャンです。

 

記事に関しては、基本的に「人に見られることを意識した日記ぽいもの」として

書いていこうと思います。

 まずは、シンプルで投稿しやすそうなはてなで書いてみることにしました。

ブログ初心者かぁという温かい目で読んでいただけると幸いです。

 

よろしくおねがいします。

 

nonoyuri